どろろの「ばんもんの巻」のあらすじ
突然たてられた板塀
「ばんもんの巻」は「どろろ」の物語前半のハイライトです。
百鬼丸の父・醍醐景光が仕える富樫政親の領土と敵対する朝倉の領土の境目にある町が、ある日突然大きな板塀・ばんもんによって区切られてしまいます。戦乱によって板塀は一部の姿を残すのみに焼き崩れてしまうものの、その板塀を越えるもの・越えた人は間者(スパイ)としてそれぞれの領主に密告され、殺されてしまうのでした。
村の人間はばんもんの向こうに残した家族に会いたいと思うものの、それぞれの領主からの罰を恐れてばんもんを越えられず、また越えてきた人を殺害するのでした。
2019年に再アニメ化した『どろろ』では、ばんもんは百鬼丸の父・醍醐景光が築いた砦の焼け跡とされています。
百鬼丸と多宝丸の関係
「ばんもんの巻」は同じ村が分断され、憎しみあうという悲劇を描いていますが、これが百鬼丸と多宝丸の関係にもつながっています。
百鬼丸も多宝丸も同じ父・母を持つのですが、お互いに素性を知らずに剣を交えます。
もとは同じ根のものが憎しみあい、争いあうというのが「ばんもんの巻」のテーマだったのでしょう。
ばんもんのもとネタは?
このばんもんは作者・手塚治虫先生のオリジナルの設定ではなく、当時の世界地図に実際に存在していました。それが「ベルリンの壁」と「板門店」でした。
では「ベルリンの壁」と「板門店」とはどのようなものだったのでしょうか?
これからは「ベルリンの壁」と「板門店」についてみていきましょう。
ベルリンの壁
「ばんもんの巻」では村が突然板塀によって区切られてしまいますが、物理的な遮蔽物が突如現れるというのは「ベルリンの壁」そのものです。
第2次世界大戦の敗戦と分割統治
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻することで始まった第2次世界大戦は、1945年4月30日にドイツの総統・アドルフ・ヒトラーが自殺し、5月9日にドイツが降伏することでヨーロッパでの戦争は終了します。
同年7月にポツダム協定が結ばれ、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領されることが決まりましたが、ドイツの首都・ベルリンもこれら4ヵ国で占領することになりました。
冷戦によるアメリカとソ連の対立
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が協力していたのも、ドイツという共通の敵がいた時まででした。
ソ連という言葉は現在では聞きなれないものになりました。
ソ連は「ソビエト社会主義共和国連邦」の略であり、まったく同じではないものの、現在のロシアと考えてよいでしょう。
「社会主義共和国」の名前の通り、ソ連は社会主義を打ち立てており、自由主義のアメリカと事あるごとに対立していました。
実際に両者が直接戦っていたわけではないものの、この対立構造を冷戦と呼んでいました。分割されたドイツも占領していた国の都合により社会主義国の東ドイツ、自由主義国の西ドイツに分かれました。東ドイツにあり、共同占領されていたベルリンも東ベルリン、西ベルリンに分かれてしまいます。
人口流出を避けベルリンの壁が設立される
東と西に分かれたとはいえ、比較的自由な行き来ができたベルリンでしたが、社会主義国の東ベルリンから自由主義の西ベルリンへの人口流出が増えていくと、1961年8月13日に東ドイツは突然東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離、さらにはコンクリートの壁を作りました。
このコンクリートの壁が「ベルリンの壁」と呼ばれ、壁による東ベルリン・西ベルリンの遮断が始まりました。
よく勘違いされているのですが、東ドイツ・西ドイツに壁があったわけでなく、ベルリンが壁によって分断されていたのでした。
誤情報からベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁はまさに「どろろ」の「ばんもんの巻」のように、壁を越えようとしたものは殺害され、ベルリンの壁崩壊までに1,200人もの人命が奪われたとされています。
そんな冷戦の象徴とされたベルリンの壁の崩壊はなんともあっけないものでした。
1980年代後半になると、社会主義国の力が弱まっていき、東ドイツ・東ベルリンも政治的・経済的に混乱を極めていました。
そうした中で東ドイツは規制緩和のため、旅行や国外移住の大幅な規制緩和の政令を考えていたのですが、1989年11月9日にまだ決定事項ではない情報を新人の報道局長がメディアに対して「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表してしまったため、東と西のベルリン住民が国境に殺到しました。
かれらはハンマーやつるはしを持ち出し、11月10日には壁の一部が壊されました。
1961年から約28年もの間分断されていたベルリンはようやくもとの街にへと戻ることになり、ドイツもまた1990年10月3日に再統一することになりました。
手塚治虫先生はベルリンの壁崩壊を見られなかった
わざわざ自らの作品にまでとりあげて、その対立の愚かしさを訴えた手塚治虫先生ですが、冷戦の象徴のあっけない最後を見ることはありませんでした。
手塚治虫先生はベルリンの壁が崩された年と同じ1989年の2月にこの世を去りました。
板門店
「ばんもん」という遮蔽物のモデルが「ベルリンの壁」であるならば、「ばんもん」という名前自体は朝鮮半島の「板門店」に由来しています。
韓国語で「パンムンジョム」、日本語でも「はんもんてん」と呼ばれますが、「板門」だけを読むと「ばんもん」と読めます。
ではこの板門店とはどのようなものなのでしょうか。
朝鮮半島の分裂
第2次世界大戦まで、朝鮮半島は日本が統治していました。
しかし日本が戦争に敗れるまでに、ソ連が朝鮮半島の北部を占領していました。朝鮮半島全土の社会主義化を恐れたアメリカは、北緯38度線を境にして北はソ連が、南をアメリカが占領することを提案し、ソ連もこれに合意しました。
日本が降伏したのちの1948年、北に社会主義国の朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略記)が、南に大韓民国(以下、韓国と略記)が建国されました。
突然の北朝鮮の進行
ドイツと同じく社会主義と自由主義に分かれていた朝鮮半島でしたが、1950年6月、北朝鮮が突如として韓国に侵攻しました。
奇襲を受けた形の韓国側は敗退を続け、一時は壊滅寸前にまで追い込まれてしまいます。
しかし、アメリカや国連軍が出動すると、韓国側も勢力を盛り返していきます。この時の情勢はWikiPediaに張り付けられているアニメーションがわかりやすく表現しています。
緒戦の北朝鮮側の猛攻とその後の韓国側の挽回が見て取れます。
膠着状態と休戦
1951年になると戦線は膠着し、停戦の道が模索され始めます。
1953年7月27日に北朝鮮軍と韓国側の国連軍の間で休戦協定が結ばれましたが、この場所こそが38度線近辺の板門店でした。
ベルリンの壁とは異なり、現在も北朝鮮と韓国は休戦の状態を続け、板門店では軍事境界線が引かれ、韓国軍と北朝鮮の軍隊がにらみ合いを続けています。北朝鮮問題でよくテレビで映し出される場所が板門店なのです。
2018年4月27日に行われた南北首脳会談では、北朝鮮の国務委員会委員長・金正恩と韓国大統領の文在寅が板門店でお互いに軍事境界線を越えて行きました。
各国のメディアが歴史的な日だったと報じたのは、こうした背景があったのですね。