世界史の勉強をしていたのも遠い昔になったので「雍正帝」という名前をすっかり忘れていたところ、友人と読んでいた君塚直隆さんの『君主制とはなんだろうか』で名前が出てきて興味を持ち、宮崎市定先生の『雍正帝 中国の独裁君主』を手に取りました。
以下、面白かった部分をまとめていきます。
とにかくストイック
君為難
— 私が出会った言葉 (@words_1_met) April 15, 2024
原以一人治天下
不以天下奉一人
『雍正帝』111頁
「雍正帝とはどんな人物か?」
一言で表すと、「超ストイック皇帝」です。
誰よりも勉強し、あらゆる書類に目を通して働いた雍正帝は、Wikipediaによると過労が死因だったのではないかという説もあるようです。
部屋の柱に「原以一人治天下 不以天下奉一人」という字を掲げ、天下は自分にかかっていると常に意識していたようです。
天命の自覚
なぜ、このように雍正帝はストイックだったのでしょうか?その要因が天命の自覚であったと、本の中では語られています。
中国には易姓革命と呼ばれる思想があります。
中国では秦を滅ぼして漢が興り、明を滅ぼして清ができるなど、これまでとは全くことなる素性の人間が皇帝になり、中国を統治することがあります。
こうした状況を受け入れる背景になっているのが易姓革命の思想で、簡単にいうと、天子が徳を失うと、新しい有徳のものがそれに取って代わるという考えです。
この思想によって、王朝の交代は受け入れられてきたのですが、皇帝からするとたまったものではありません。
「お前に徳がなければ、革命が起きてしまうぞ」という脅しをうけているようなものです。
そのため、雍正帝は日々、天が清王朝を見捨てないように仕事をしたのでした。
そもそも雍正帝は、35人の兄弟の中から、45歳にして偶然皇帝に選ばれました。
こうした境遇からも、天命というのを強く意識していたのかもしれません。
機知にとんだ太子密建
聡明な雍正帝の功績の一つに「太子密建」が挙げられます。
雍正帝はもともと後継者に選ばれていたわけではなく、雍正帝の父・康熙帝は別の兄弟を太子(後継者)に選んでいました。
しかし、次期太子が公になっていると、そこに取り入ろうとする人物が後を絶たず、派閥ができ、太子は太子で次第に皇帝を疎ましく思い、追いやろうとしてしまいます。
康熙帝もこの問題に悩まされ、結局は太子を廃止し、後継者が決まらない中で、今わの際にバタバタとしながら4男であった雍正帝が選ばれました。
この後継者問題に対して、雍正帝はあらかじめ後継者は決めておくものの、その名前を書いた書類は隠しておき、日ごろの行いを見て随時書き直すという制度にしました。
これを太子密建と呼び、この制度のおかげで皇帝の子どもは日ごろから精進し、暗愚な皇帝が出にくかったといわれています。
独裁政治の限界
こんな雍正帝ですが、その治世は決して長くなく、即位してから13年でこの世を去ります。
まさに名君という名にふさわしい人物の雍正帝ですが、宮崎先生は「雍正帝流儀の政治方式はせいぜい十三年ぐらいが有効の最大限ではなかったか」と述べています[1]宮崎市定『雍正帝 中国の独裁君主』中公文庫、1996年、179頁。。
こまごまと地方官の仕事まで手伝いながら、夜遅くまで書類に目を通して意思決定をするなど、雍正帝のような人物でしかなしえず、そのような体制はもともと長く続くはずがなかったということです。
また、こうした名君が生まれるのは、長期的に見て中国の人にとってよかったのかという疑問も宮崎先生は投げかけています。
つまり、素晴らしい名君の恩恵を受けたことで、独裁政治でなければ国が治まらないように方向づけられてしまったのは、「善意にあふれた悪意の政治」だと書かれています[2]宮崎市定『雍正帝 中国の独裁君主』中公文庫、1996年、192頁。。